テニス歴史

【往年の名選手】史上最強の攻撃型オールラウンダー”ピート・サンプラス”/Pete Sampras

アイキャッチ画像:Pete Sampras, James Phelps(Licensed under CC BY 2.0)

偉大なるチャンピオン”ピート・サンプラス”

1990年代から2000年代初頭に活躍し、完成系オールラウンダーと言われた名選手です。

あの時代のテニス小僧たちを熱狂させたピート・サンプラスについて、今回は紹介していきたいと思います。

サンプラスが活躍した時代

Embed from Getty Images

サンプラスが活躍した1990年代から2000年代初頭、テニスは大幅に進化を遂げました

90年前後に隆盛を極めたエドバーグ・ベッカー時代は、まだサーブ&ボレーを中心とした古き良きテニスの余韻を引きずっていました。その潮目を大きく変えたのが、サンプラス、アガシ、クーリエ、チャンのアメリカンテニスでした。

攻撃型オールラウンダーのサンプラス、超攻撃型ベースライナーのアガシとクーリエ、鉄壁の守備力のチャン、この4人の活躍がテニス界を牽引し、プロテニスのレベルを何段階も引き上げたことは間違いありません。

サンプラスの主な記録

  • グランドスラム:合計14勝(全豪2勝、全英7勝、全米5勝) 歴代4位(1位フェデラー・ナダル、3位ジョコビッチ)
  • 世界ランク1位通算在位記録:286週 歴代3位(1位フェデラー、2位ジョコビッチ)
  • 6年連続 ATPランキング年末1位:歴代1位タイ(ジョコビッチ)
  • 全米オープン男子最年少優勝記録:19歳28日
  • ウィンブルドン7回制覇:歴代2位

2021年1月時点

ピート・サンプラスとは

プロフィール

出身・国籍アメリカ
生年月日1971年8月12日
身長185cm
利き手右利き
バックハンド片手打ち
プロ転向1988年

10代でグランドスラム初優勝

1988年に16歳でプロキャリアをスタートさせたサンプラスは、わずか2年後の1990年、18歳でフィラデルフィアのインドアにて初優勝を果たします。

そして第12シードとして乗り込んだ同年の全米オープン。期待の次世代有望選手ではあったものの、優勝候補には全くあがっていなかったサンプラス。

準々決勝ではイワン・レンドルをフルセットで、準決勝ではジョン・マッケンローを4セットで、そして決勝では若手再有望株だったアンドレ・アガシをストレートで撃破し、全米オープン男子最年少優勝記録を100年ぶりに更新する「19歳28日」の記録を樹立します。

Embed from Getty Images

No.1の頂へ

Embed from Getty Images

翌年の1991年もマスターズカップ(現在のツアーファイナル)をふくむ5大会で優勝し、着々とトップの座へ向けて躍進し続けます。

1992年には、全仏、ウィンブルドンでも好成績を残し、全米で2年ぶりに決勝へ進出。ステファン・エドバーグに破れ準優勝に終わるも、世界ナンバーワンへ向けた発言をし始めるようになりました。

そしてツアー最初の優勝からわずか3年後の1993年4月、ジム・クーリエを抜いて念願のATPランキングNo.1に到達します。

ウィンブルドンの帝王

そして世界ランク1位に到達した1993年、最大の目標だったウィンブルドンでも、とうとう初優勝を果たしたサンプラス。

Embed from Getty Images

1993年のウィンブルドンからグランドスラム3大会連続優勝

ウィンブルドンは2000年までの8年間の中で3連覇と4連覇をふくむ7回制覇(96年準々決勝でクライチェクに唯一敗北)。

1993年は真のサンプラス時代が始まった年となり、その後ウィンブルドンの帝王として、不動の世界ナンバー1として、6年近くに渡って君臨し続けました。

プレースタイル

史上最高のオールラウンダーと称されたサンプラスのプレーは、全てのショットを高次元に操ることができる、ネットプレーを積極的に取り入れた攻撃型のオールラウンドテニスでした。

サンプラスは「男子テニス史上屈指のオールラウンダー」と称されている。その理由は、すべての要素で高い能力を示していたことにある。

ほとんどすべてのショットで絶対的にポイントが取れる」選手であった。

Wikipedia「ピート・サンプラス」 より

史上最強のサーバー

最初に左つま先を上げる構えにはじまり、身体の捻りを十分に効かせたテイクバック、腕をムチのようにしなやかに振り下ろすインパクト。

無駄のないスイングから繰り出されるサービスは、200kmを軽く超える強烈なファーストだけでなく、あらゆる球種とコースを使いこなし、セカンドでも攻撃ができる「最高レベルのサービス」でした。

「サンプラスは、テニス史上最も完成されたサーバー」

この評価は決して過言ではありません。

Embed from Getty Images

そのしなやかかつ強烈なサービスをぜひ動画で見てほしい

ネットプレー

サンプラスは、オールラウンダーであると同時に、非常にセンスにあふれたボレーヤーでもありました。特にウィンブルドンで見せる鉄壁のサーブ&ボレーが印象的です。

集中力が高まると、難易度の高いハーフボレーでさえ簡単にチャンスに変えてしまう。ゾーンに入ったサンプラスのネットの牙城を崩すことは、誰にとっても困難に思えました。

また、時折見せる「これでもか!」のダンクスマッシュは、テニスファンの心を鷲づかみにしました。

Embed from Getty Images

フォアハンドストローク

イースタングリップから繰り広げられるその強力なフラット系フォアハンドは弾丸サーブと合わせて「ピストル」と称され、純粋なベースライナーのアガシとも互角に渡り合える、サンプラスの大きな武器でした。

フォアのクロスカウンターは、彼の得意ショットのひとつでした。

Embed from Getty Images

バックハンド

肘を支点にしたサンプラス独特の片手バックハンドも、観るものを魅了するレベルの高いショットでした。

球種・コントロールのレベルが高く、スライスとの使い分けも含めて、重要なアクセントとして機能していました。

Embed from Getty Images

メンタル

現在のBIG3にも共通しますが、ここぞという時、追い込まれた時の集中力と闘志はすさまじいものがありました。

彼のメンタリティを表す印象的な出来事があります。

不覚にも脱水症状に陥ってしまった1996年全米オープン コレチャとの準々決勝。最終セットタイブレークのさなか、サンプラスは嘔吐を繰り返し、1ポイントごとにラケットを杖に身を休めるような状態。

全てのポイントで全力を尽くせない状態の中、取りに行くポイントとそうでないポイントを見極め、コレチャに訪れた7-6マッチポイントはネットプレーでしのぎ、7-7からはセカンドサーブでエースをとる。

最後はコレチャのダブルフォルトによって試合終了。紛れもなくサンプラスの強靭なメンタルが手繰り寄せた勝利でした。

「退屈なチャンピオン」を払拭

その真面目さからくるマスコミ対応のつまらなさ、派手なアクションを好まない姿勢、完璧で強すぎるテニスから、「退屈なチャンピオン」「ロボット」と揶揄されていたサンプラス。

そんな評価を一変させたのは1995年全豪オープン、クーリエとの準々決勝のことでした。

長年のコーチであり親友であるティム・ガリクソンが、全豪期間中に病に倒れ、アメリカに帰国してしまいます。そしてクーリエとの試合中、「コーチのために頑張れ!」と観客から声をかけられたサンプラスはコート上で泣き出してしまいました。

しかも、結果的に2セットダウンからの大逆転勝利。初めて見せたサンプラスの人間臭さ、試練を乗り越えた姿に、テニスファンたちからの評価は「完璧なプレーと人間味を兼ね備えたチャンピオン」へと一変したのでした。

サンプラスの仕草

何てことのない些細な仕草でさえ、王者がやると絵になるものです。

あの頃は、サンプラスのちょっとした癖を真似するテニス小僧たちが沢山いたものです。

親指で汗をぬぐう

Embed from Getty Images

サーブに入る前に舌を出す

Embed from Getty Images

1ポイントごとにストリングを治す

また、ほつれはじめたストリングに、エラストクロスを挟み込んでいた姿も印象的です。

Embed from Getty Images

持病との戦い

サンプラスは「サラセミア(地中海性貧血)」を患っていたことが知られています。ギリシャの血を引いていたサンプラスは、この遺伝性の貧血によって、特にキャリア後半は体力の衰えに悩まされました。

キャリア後半の失速の理由は、「練習不足」ではなく、持病を抱えながら戦い続けたためだったのです。

2008年に刊行されたサンプラスの自叙伝には、サラセミアとの戦いについても記されているそうです。

王者のタスキは引き継がれる

いつの時代も、王者は移り変わります。

2001年ウィンブルドン4回戦で、当時19歳、ランキング15位だったロジャー・フェデラーに敗れ、続く全米オープンでは決勝でレイトン・ヒューイットに敗退。

新世代に道を阻まれ、9年ぶりにグランドスラム無冠に終わった2001年は、サンプラス時代の終焉を強く感じさせる年となりました。

Embed from Getty Images

世代交代を大いに予感させる一戦となった2001年ウィンブルドン4回戦

全米オープン最後の優勝 そして引退

持病による体力の衰え、新世代の台頭。

2年以上ツアー優勝から遠ざかり、ランキングも低迷していた2002年。第17シードで臨んだ全米オープンで、再びサンプラスは躍動します。

すでに台頭していたアンディ・ロディックを準々決勝でストレートで撃破、決勝では奇しくも1990年の初優勝時と同カード、ライバル”アンドレ・アガシ”を破り、14回目のグランドスラムタイトルを獲得します。

そして、この全米オープンが、結果的にサンプラス現役最後の試合となりました。

引退試合がグランドスラムの決勝でしかも優勝、そんな格好良すぎる幕の引き方で、サンプラスは現役生活を終えたのです。

Embed from Getty Images

サンプラスのテニスギア

ラケット:ウイルソン プロスタッフミッド(セントヴィンセント製)とトーナグリップ

現役生活中、ウイルソンプロスタッフミッド、しかもセントヴィンセント製の製品にこだわり続けたサンプラス。ただでさえ重いこのラケットに、さらに9時3時の位置に鉛をベタベタと貼り付け、バボラのナチュラルストリングを75ポンドの超ハイテンションで張り上げ、400g近い総重量にしていたそうです。

1990年に全米で優勝した翌年、サンプラスシグネチャーモデルで、ミッドのペイントジョブ「プロスタッフサンプラス」がウイルソンからリリースされます。このモデルは、台湾製プロスタッフミッドのデザイン違いで、セントヴィンセント製の塗装とは明らかに異なり、握り心地にこだわりが強かったサンプラスは、結局シグネチャーモデルは一切使用しませんでした。

キャリア晩年には、サンプラスが追求した握り心地に近づけるため、独特のマット塗装をスロート上部に施した「プロスタッフツアー90」が開発されましたが、結局このラケットを使うことなく現役を引退してしまいました。後年、プロスタッフツアー90はサンプラスではなく、フェデラーが使用したモデルとして覚えられています。

その後、引退後にシニアツアーへ参戦するサンプラスのために、「【K】プロスタッフ88」が発売され、これは実際に使用していたようです。

Embed from Getty Images

グリップはサンプラス専用に成型しなおしたものを使用していたそうです。

また、サンプラスと言えば、セントヴィンセント製プロスタッフミッドにトーナの青グリップ・赤いテープがトレードマークでした。

今でもトーナの宣材写真にはサンプラスが写っています。

また、サンプラスは丸形のダンパーを愛用し続けました。

ナイキのウェア/シューズ

Embed from Getty Images

タッキーニとのウェア・シューズ契約が終了した1994年から、サンプラスはナイキのウエア・シューズを着用しはじめます。

ウェア・シューズへのこだわり
  • ゆったりシャツ(コットン100%素材)
  • ダボパン
  • ソックス2枚履き
  • エアオシレートを6年間愛用

それまでのテニスウェアではあまり見ることのなかった、かなりゆったりとしたシルエットのシャツダボダボのショートパンツは、かなり強烈なインパクトを与えました。

しかし、このナイキのサンプラスファッションをきっかけに、90年代後半へかけて、テニスウェアはゆとりのあるシルエットに向かっていきました

また、サンプラスは現役中、シャツはコットン100%素材にこだわり続けたそうです。

サンプラスのこだわりはもうひとつ。ナイキ契約になって3年目の1997年に開発されたエアオシレートは、その後モデルチェンジすることなく、引退する2002年まで終始履き続けました。エアオシレートはサンプラスの代名詞のひとつとなり、たびたび復刻されるような伝説のシューズになりました。

Embed from Getty Images

さいごに

地味でつまらないロボットと揶揄されることもあったサンプラスでしたが、高い次元で完成された数々のショット、強靭な精神力、攻撃的なプレースタイルで、我々テニスファンを大いに魅了してくれました。

あの頃、彼がこだわり続けたセントヴィンセント製プロスタッフや、数々のテニスギアも、その全てが憧れの対象でした。

サンプラスがのこした数々の記録は、現在のBIG3に多くを塗り替えられてしまいましたが、あの時代に光り輝いた”稀代のチャンピオン”の価値が落ちるわけではありません。

ロジャー・フェデラーも憧れた英雄「ピート・サンプラス」は、永遠に語り継ぐべき偉大なチャンピオンです。