テニス歴史

【往年の名選手】憎まれた英雄”ジョン・マッケンロー” John McEnroe

Photo by Tennis Streaming

テニスファンであれば”ジョン・マッケンロー”を知らない方はいないと思います。

強烈なスタイルで、80年代前半に君臨したマッケンロー。その芸術的なプレイだけでなく、精神力、立ち振る舞い、メディアとの付き合い方。全てにおいて強烈な個性を放ちました。マッケンローほど、テニス関係者そしてファンたちに憎まれ愛された選手はこれまでにいたでしょうか?

今回はそんなマッケンローについて紹介していきたいと思います。

マッケンローが活躍した時代

マッケンローが全盛だった70年後半~80年前半は、ウッドラケット時代からカーボンラケットによるパワーテニスへの移行期にあたりますが、彼は”ウッドラケットによって作られたテニススタイル”を貫いた存在でした。

パワーテニスの先駆者であったイワン・レンドルと実はほぼ同世代、マッケンローが1歳だけ上だったというのは少し驚きです。

マッケンローのライバルは、上の世代ではコナーズボルグ、下の世代はレンドルビランデルエドバーグベッカーアガシサンプラス世代などです。彼らとしのぎを削り合い偉大な成績を残しています。

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ライバルのひとりだったコナーズ

マッケンローの主な記録

  • グランドスラム:合計7勝(全英3勝、全米4勝) 歴代14位タイ
  • 世界ランク1位通算在位記録:170週 歴代7位
  • シングルス・ダブルス同時に世界ランキング1位(1984年)
  • シングルス年間勝率:96.47% (82勝3敗) 史上1位

(2020年5月現在)

特に1984年の活躍はすさまじく、2005年フェデラー、2015年ジョコビッチの無双時代を上回る史上最高の勝率を残しました。

ジョン・マッケンローとは

悪童マッケンロー

テニスがオープン化されてからわずか8年後に17歳でデビューしたマッケンロー。デビュー翌年にはグランドスラムのダブルスで優勝するなど、持ち前のテニスセンスを引っ提げ頭角を現しはじめます。

しかしながら、審判への暴言、対戦相手への挑発、メディアに噛みつき観客とも喧嘩、感情を抑えずにあるゆるものに反抗するかのようなマッケンロー。オープン化以前の上流スポーツとしての色がまだ残っていた当時のテニス界ではマッケンローはまだ許されざる存在で、1981年にウィンブルドンでボルグを破り初優勝した時に、ウィンブルドン(オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ)は本来は優勝者に与えられるはずの”名誉会員資格”を与えなかったほどでした。

その態度が世間一般や既存勢力からは非難・攻撃をされ、嫌悪の対象となり、その様子は日本のテレビでもニュースになっていました。当時幼少だった私ですら、マッケンローの不遜な態度が大人たちの嫌悪の対象となっていたことを記憶しています。

しかしながら、マッケンローの”自身の感情に素直で人間味あふれる姿”が若者たちから指示されていたのも事実であり、その天才的でセンスあふれる攻撃的なプレイは絶大なる人気を誇ってもいたのです。

憎まれ役でありながら、当時の日本でのCM出演本数からみても、大人気の選手だったことがわかります。日清マヨドレ、サントリーレモン、トヨタカローラⅡ、佐藤製薬薬用アセスなど、80年代は本当に沢山出演していました。特にアセスのダジャレCMは今でも忘れられません。『歯ソーノーローには負っけんろー!』て、言わされてました…。

当時の妻”テータム・オニール”も出演している

ウッドラケット時代最後のチャンピオン

ウッドラケットが当たり前だった時代に腕を磨いたマッケンローは、現役中にいわゆるオールドスタイルのテニスを貫いたプレイヤーでした。

まだサーブアンドボレーが全盛の時代、コンチネンタルグリップで全てのショットを打ち分けレのあるサービスと天才的と言われたテニス感によって、ウッドラケット最末期にボルグとの死闘を繰り広げ1981年に念願の世界ランク1位にたどり着きます。

しかしながら、マッケンローが1位になりボルグがテニス界から去ったこの頃、カーボンラケットによってテニスは完全に新時代に突入します。そしてマッケンローはカーボンラケットの恩恵によって台頭した攻撃的ストローカー”レンドル”との対戦成績が大きく落ち込み始めることになりました。

1983年、弟のパトリック・マッケンローの勧めもあり、木製のDUNLOP MAXPLYからカーボン・ナイロン製のDUNLOP MAX 200Gにラケットを変更し見事なまでに順応します。レンドルとの対戦成績も完全に逆転し、1984年に驚異的な全盛期を迎えることとなりました。

尚、1981年全米オープンで優勝したマッケンローが、ウッドラケットによる最後のグランドスラム優勝者となったそうです。

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DUNLOP MAX 200Gを片手にレンドルとの全米決勝に臨むマッケンロー。テンションは38ポンド程度といわれていた

マッケンロー”態度の悪さ”の意味

激情的で他人に対して攻撃的すぎるあまり、数々の問題を起こしていたマッケンローですが、そうせざるを得なかった理由はどこにあったのでしょうか?

その答えは映画『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男』や、書籍『ボルグとマッケンロー テニスで世界を動かした男たち』に隠されています。

大きく言うと

  • 自分と同様な高い基準を周囲の人に持ってもらいたかった
  • 集中の妨げとなるような外部要因を許せなかった
  • 怒りという感情をパワーに変えていた

ということだったようです。あまりに完璧主義なマッケンロー。しかし、どれだけラケットを叩きつけても、どれだけ観客・審判に暴言を吐いたとしても、試合に勝つ方法を見つけ出し集中力を切らさないのがマッケンローでした。むやみにラケットを叩きつけ、プッツン切れて敗れていく最近のテニス選手とは全く異なる次元と言えるでしょう。

そして、そんなマッケンローの悪態は、ひとつのエンターテインメントになっていたことも紛れのない事実のようです。

現役引退後も輝き続けるマッケンロー

マッケンローは引退してなお、体形を維持し、高いレベルのテニスを保ち、シニアツアーでも活躍しています。1992年にシングルスを引退したのちにも、ダブルスでは何度か復帰し、2006年には47歳でツアー優勝までしてしまいます!

今でもグランドスラム大会には必ずと言ってよいほど姿を見せ、レジェンドダブルスに出場したり、テレビの解説にも出ずっぱり。今だに大人気のマッケンローなのです。

マッケンローのこだわり

ダブルスとデビスカップへのこだわり

マッケンローは1979年に初めてダブルス世界ランク1位となり、1984年の全盛期にはシングルス・ダブルス両方で同時世界1位になりました。

ボルグとフルセットを戦った1981年のウィンブルドン、同年の全米オープンでは何と単複制覇という、今の時代ではありえない成績を残しています。

またデビスカップへのこだわりも尋常ではなく、国を代表して出場すること自体を非常に大切にしていました。新世代のアメリカ人選手、アガシやサンプラスが自身のツアーを優先してデ杯を欠場することに対し、若手に苦言を呈していたことはとても印象的です。

テニスウェア・シューズ変遷

ボルグに憧れていたマッケンローのキャリア当初はなんと、

  • ボルグモデルのFILAウェアにアディダスシューズ

といういで立ちだったようです。その後は、

  • タッキーニのウェアにナイキのシューズ、頭に赤いヘッドバンドを着用
  • 試合前後はタッキーニの”デビスカップチームジャージ”を着用

がトレードマークとなります。

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有名なタッキーニのデビスカップチームジャージ姿のマッケンロー

その語、

  • 1985年からはアパレルもナイキに変更
  • 1986年からは伝説のシューズ”AIR TRAINERⅠ”を着用

アパレルとシューズは完全にナイキ契約になりました。ちなみにAIR TRAINERⅠはデビューしたころのアガシが履いていたことも有名です。ナイキはアガシの台頭に合わせエアテックチャレンジをフラッグシップモデルとして発売し、マッケンローも

  • 1989年から引退までエアテックチャレンジシリーズを着用

することとなりました。

ナイキニューストレーナー1コラージュ伝説のシューズ”Nike AIR TRAINERⅠ”  Photo by http://news.nike.com/news/the-nike-air-trainer-1-through-defiance-a-legend-is-born

ちなみにAIR TRAINERⅠは、エアジョーダン、エアテックチャレンジと同様に、幾度も復刻されます。そして単なる復刻だけにとどまらず、引退していたマッケンローのために最新技術を搭載した”New AIR TRAINER”を作ったこともあります。それほどナイキも思い入れを持っていたシューズだったようです。

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引退していたマッケンローがシニアツアーで履いた”New AIR TRAINER”

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キャリア後半には幅広に巻くバンダナがトレードマークのひとつに加わった

数々の伝説のラケット

マッケンローが愛用した名器についても触れなくてはなりません。

デビュー当初は、”DUNLOP MAXPLY”

そして躍進に合わせてシグネチャーモデル、DUNLOP MAXPLY McEnroe”に昇格します。

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DUNLOP MAXPLY McEnroeを使うマッケンロー

そして前述の通り、1983年からは伝説の”DUNLOP MAX 200G”にラケットを変更しました。その後は多少の紆余曲折はあったものの、引退までこのモデルを使用し続けたそうです。

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DUNLOP MAX 200Gを使うマッケンロー。難しいが美しいラケットだった

この時代にテニスをしていた方であれば分かると思いますが、必ず仲間内で最低一人はMAX200Gを使っていたものです。カーボン製とは言え、ウッド以上といってもよいほどしなるラケットで、決して簡単なラケットでなかったことを記憶しています。

そして伝説がもうひとつ。引退した選手に専用モデルが提供されたのは、テニス史上マッケンローとサンプラスだけではないでしょうか。2000年代に入り、シニアツアーで活躍するマッケンローのためにダンロップが提供したのは、ウッド時代の配色をカーボン製ラケットに施した”DUNLOP MAXPLY McEnroe”でした!

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カーボン製のMAXPLY McEenroeで躍動するマッケンロー

さいごに

私がはじめてマッケンローを認知したのは小学生になるかならないかの頃、審判に猛烈な抗議をして大荒れのマッケンローが退場になったというテレビニュースでした。また、テレビで放映されていたボルグvsマッケンローの試合もかすかに記憶しています。テニス素人だった父が皇帝ボルグを応援していた姿を見て、当時はマッケンローを勝手に悪役だと思い込んでいました。

しかし自分がテニスを始めてから、マッケンローの魅力を十分すぎるほどに理解することができました。マッケンローのテニス、そして生き方はドラマティックすぎるのです。

形から入る私は、マッケンローモデルのナイキウェア、足元はAIR TRAINERⅠを履き、インターハイ地区予選を戦いました。AIR TRAINERⅠは復刻も含めて3足を履きつぶしました。

大人になった今も、タッキーニの”デビスカップチームジャージ”を愛用して楽しんでいます。

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記録だけであればマッケンローより上は沢山いますが、これほど語る価値のある選手はそうそういないはずです。実績と存在感、プロテニスが成熟しつつあった時代の功績者としても、マッケンローはトップの選手と言えるのではないでしょうか。大好きです、マッケンロー!