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イワン・レンドルはご存じでしょうか?80~90年代を代表する超名選手ですが、最近ではアンディ・マレーのコーチ、今はアレクサンダー・ズベレフのコーチとしての印象も強いかも知れません。
堅実なストローカーとしてやや地味な印象はあったものの、その後の選手にも大きな影響を与えたチャンピオン”イワン・レンドル”を紹介したいと思います。
イワン・レンドルが活躍した時代
デビュー年は18歳だった1978年。レンドルが活躍した80~90年代には、上はコナーズ、ボルグ、マッケンローがひしめきあい、下の世代にはビランデル、エドバーグ、ベッカー、アガシ、サンプラス、チャン、クーリエなどがいて、彼らと数々の死闘を繰り広げました。
ラケットがウッドからカーボンへ移り変わり急速なスピード化が図られた80年代、ビッグサーブ、高速スピンなどオールラウンドに進化していく90年代という2つの時代においてもレンドルは輝ける実績を残しました。
- グランドスラム:全豪2勝、全仏3勝、全米3勝の合計8勝の成績
- 世界ランク1位連続在位記録157週はフェデラー、コナーズに続いて今でも歴代3位
- 世界ランク1位通算在位記録270週はフェデラー、サンプラス、ジョコビッチに次いで歴代4位
(2020年5月現在)
紛れもなく一時代を作った選手です。
私がテニスをテレビ観戦するようになった80年代後半は、ちょうどレンドルのキャリアハイの時期でしたが、ウィンブルドンで勝てない印象ばかりが残っています。しかしながらウィンブルドン以外では、非常にバランスよく勝っていたのです。
イワン・レンドルとは
精密機械と言われたレンドル
”精密機械”と称されたコントロール抜群かつ緩急自在のストローク、ベッカーにも対抗できるビッグサーブ、狙いすましたパッシング、ドロップショットやロブといった小技も非常に上手い。非常にテクニックに長けた完成型グランドストローカーでした。
改めて見ると、レンドルのフォアハンドは肘からテイクバックを始めるオールドスタイル。ストロークスピードが今ほど速くなかったこの時代には適していたのでしょうね。
これほどウィンブルドンに左右された選手はいただろうか!?
展開の中で行うネットプレイは決して下手ではありませんでしたが、やや厚めのグリップで行うボレーは得意とは言えませんでした。
サーブアンドボレーヤーが有利だった当時のウィンブルドンではなかなか勝てないレンドル。86年、87年と2年連続で決勝に進むも、それぞれベッカーとキャッシュに阻まれ準優勝。どうしてもそのタイトルが欲しかったレンドルは、ウィンブルドンを優先するためにそれまで相性の良かった全仏を欠場し自身専用のグラスコートで調整期間を作るなど、ウィンブルドンに全ての照準を合わせて全身全霊で挑み続けます。しかしその後もベスト4まではいくものの、結局最後までその念願が叶うことはありませんでした。
ベースライナーはウィンブルドンでは勝てない! レンドルはそう思われていた時代の象徴のような存在でした。
勝負強い?弱い?
21歳だった81年の全仏で初めてグランドスラム決勝に進出したレンドルでしたが、グランドスラム決勝は初進出から4連敗してしまいます。
しかし、初進出から3年後の84年全仏でグランドスラム初優勝を果たし、その後は85年、86年、87年、89年、90年と毎年のようにグランドスラムタイトルを獲得します。
グランドスラム決勝の最初の4連敗、また決勝の勝率が42%(8勝11敗)だったことからレンドルを勝負弱いとする見方もありましたが、数多くの悔しい準優勝を経て円熟味を増したからこそ、20代後半をピークとして勝てる選手に成長したと考えるべきでしょう。
レンドルは2012年にアンディ・マレーのコーチに就任する。それまでレンドル同様にグランドスラム決勝で初進出から4連敗していたマレーは、この年の全米オープンでジョコビッチを破り念願のグランドスラム初タイトルを手にした。「必ずいつかグランドスラムで勝つことができる!」というレンドルからの言葉が、誰より説得力をもってマレーを勇気づけたに違いない。
退屈で不人気なチャンピオン?
精密機械と称される正確なテニス、冷静沈着で感情を見せず愛想もない。
一時期の圧倒的強さも手伝って、退屈なチャンピオン扱いをされていたレンドル。今の時代も同様だと思いますが、堅実なストローカーは展開が早くドキドキさせてくれるプレイヤーと比較されてしまうのです。
華麗なサーブアンドボレーヤーが活躍する中、レンドルにもボルグほどの色気があればまだ対抗できたのかも知れません。テニスに対し徹底的にストイックで可愛げのひとつもないレンドルは、どことなく今のジョコビッチのような存在だったかも知れません。
https://www.thetennisdaily.jp/news/off-court/2020/0040027.php
「ただ強すぎる」 そんな印象を持たれていたのは確かです。
しかしながらそのスタイルは、様々な苦労と挫折を経てたどり着いたレンドルの境地だったようにも思えます。そして、レンドルの存在があったからこそあの頃の男子テニス界が盛り上がり輝いていたことも紛れのない事実です。
そんなレンドルを敬愛するテニスファンは決して少なくありませんでした。
レンドルのこだわり
グリップへのこだわり
まだオーバーグリップを巻くことが一般的ではなかった時代から、レンドルはレザーグリップの滑り止めとして大量のおがくずをポケットにしのばせ、ポイント間にグリップへ振りかけて使用していました。
ベースラインがおがくずで滑ると対戦相手からクレームが出たり、チェンジエンドの際にベースラインがほうきで掃かれるのはよく見る光景でした。なぜかこのレンドルのおがくずでさえ、テニスファンには憧れの対象となっていたものです。
リストバンドへのこだわり
レンドルのトレードマークのひとつがその長いリストバンドで、レンドルファンはその真似をしていました。私もレンドルの正確なストロークに憧れ、まずはリストバンドから真似てみましたが、もちろん効果はありませんでした…。
ラケットへのこだわり
アディダスからミズノへの変更
1990年にミズノと契約したレンドル。全豪ではウェア、シューズ類はミズノへ変更、ウインブルドンでラケットもミズノのレンドルモデルに変更されます。それまでのレンドルは用具一式がアディダスとの契約で、レンドルモデルのレギュラーサイズラケット『GTX PRO(-T)』を長年使用してきました。
1990年に30歳となったレンドルは、恐らく進化する90年代のテニスに適応しようと考えたのでしょう。ミズノとの契約に合わせて、フェイスサイズをレギュラーサイズ(70平方インチ)からミッドサイズ(90平方インチ)に変更します。全豪ではそれまでのアディダスGTX PRO-Tを使用していたものの、ウィンブルドンでは下の写真の通り、市販された『Mizuno IVAN LENDL TYPE-R(90平方インチ)』と同じ形状のラケットを使用しはじめました。
ごく短期間だけ使用した市販品同様の90平方インチの『Mizuno IVAN LENDL TYPE-R』
レンドルのミズノラケットはペイントジョブのはしり!?
しかしながら、新しいミッドサイズのラケットに慣れることが出来なかったのでしょう。全米ではアディダスのGTX PRO-Tに戻してしまいます。そして翌1991年にはミズノにGTX PROと同じ形状・サイズのラケットを作らせます。その塗装は見事にTYPE-Rペイントを施して。
そして結局レンドルは引退まで、このTYPE-RペイントのGTXを使い続けたのでした。
結局レギュラーサイズラケットから脱することができなかったレンドル
ちょうどこの同時期の1991年”ウイルソンプロスタッフクラシック95”がエドバーグ最新モデルとして市販されますが、実際にエドバーグが使っていたのは中身がプロスタッフミッドのペイントジョブでした。エドバーグファンの私は思わず”プロスタッフクラシック95”を買ってしまいましたが、結果「エドバーグ使ってないじゃん!騙された~!!」と悔しい思いをしたのでした。ウイルソンの場合は確信犯ですよね…。この頃からプロ使用品と市販品が違うという事実を強く意識するようになりました。
レンドルのケースでは、一度はレンドルもミッドサイズに本気で変更しようとしてのことでしたし、ミズノとしてもレンドルの新たなチャレンジを応援して全力でラケット開発をしたに違いありません。結果的に使い慣れたレギュラーサイズへ戻すことになったのは残念でしたが、日本メーカーのミズノがレンドルと契約したことはかなり誇りに思える出来事でした。
このミズノCMでのレンドルの名セリフ、今でも忘れません。
I play to Win.
最後に
偉大なチャンピオンであるイワン・レンドル。
時に批判され、時に嫌われたレンドルでしたが、その完成されたテニスに多くのファンがいたことは事実です。
決して順風満帆なことばかりではなかったレンドルのプロ生活でしたが、その実績と功績はいまでも燦然と輝きます。私も尊敬している選手の一人です。