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【往年の名選手】ウィンブルドンに愛され、そして嫌われた男”ボリス・ベッカー”|Boris Becker

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目次

Featured Image:Boris Becker, James Marvin Phelps(CC BY-NC 2.0)

1980年代から90年代に、派手なプレーで一世を風靡したドイツの名選手”ボリス・ベッカー”。

ベッカーはかつてのNo.1選手であり、グラフとともにドイツテニスの黄金期を支えた選手でもあります。今回は、そんなボリス・ベッカーを掘り下げて紹介します。

ボリス・ベッカーが活躍した時代

ベッカーは、あのビヨン・ボルグが引退した翌年、16歳だった1984年にプロデビュー。1999年までの16年間にわたりプロ選手として活躍しました。

同時期に活躍した顔ぶれは、上はマッケンロー、コナーズ、レンドルといったレジェンド世代、ビランデル、同世代ではライバル関係が注目されたエドバーグ(1年違い)下の世代はクーリエ、アガシ、サンプラス、チャンなどアメリカンゴールデンエイジなどがいます。

また同胞で2歳下のシュテフィ・グラフとともに活躍した時期は、ドイツテニスの黄金時代と称されています。

ベッカーは、テニスが最も輝いていた時代の名選手なのです。

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1989年ウィンブルドンでは、ベッカーとグラフのドイツ勢がアベック優勝をした

ボリス・ベッカーの主な記録

  • グランドスラム:合計6勝(全豪1991年,1996年の2勝、全英1985年,1986年,1989年の3勝、全米1989年の1勝) 歴代22位タイ
  • 世界ランク1位通算在位記録:12週 歴代18位
  • ウィンブルドン最年少優勝記録:17歳7ヶ月

(2021年11月現在)

ベッカーは元No.1プレーヤーであるとともに、なんといっても史上最年少でのウィンブルドン制覇が、記録にも記憶にも残っています。

ボリス・ベッカーとは

プレースタイル:持ち味は豪快かつ攻撃的なサーブ&ボレー

ベッカーの持ち味は、250kmに到達する”ブンブンサーブ”です。そのネーミングの由来は大砲の爆撃音「Boom Boom」であり、それほどの破壊力を誇っていました。

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サービスでは、大きくひざを曲げ、上半身の反りの反動を使い、また普通と違って右足着地だったのもベッカーの特徴でした。

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流れるような動きと組み立てのセンスが光ったエドバーグのサーブ&ボレーに対し、ベッカーはサービス力の比重が高く、十分に相手を崩した上で仕留めるスタイルのサーブ&ボレーでした。

また、エドバーグとの違いとして、フォアハンドストロークも強力で、ストローカーを打ち負かすパワーをも兼ね備えました。

大柄な身体ながら、その運動神経を生かしたダイビングボレーはベッカーのトレードマークとなりました。一部には、「ネットでの動きが悪いから、わざわざダイビングしないとボールに触れないのだ」という意見もあったようですが、ベッカーの鬼気迫る表情のダイビングボレーが、テニスファンを魅了したことは間違いありません。

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ベッカーの相手を威圧する風貌、その凄まじい闘気は、今でいうとジョコビッチに通じるようなオーラがありました。

わずか17歳でのウィンブルドン制覇

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ベッカーを語る上で欠かせないのは、今でも記録として残る17歳7か月、ノーシードからの最年少ウィンブルドン制覇です。

1985年当時のウィンブルドンは16シードまでしかなく、世界ランキング20位だったベッカーはノーシードでの出場となりました。メイヨット、ルコントなどの強豪を破って勝ち上がった決勝では、南アフリカのケビン・カレンと対戦。カレンは、コナーズ、マッケンローといったウィンブルドン覇者たちを破っての決勝進出でしたが、ベッカーの快進撃を止めることはできず、史上最年少ウィンブルドンチャンピオンが誕生しました。

ウィンブルドン連覇・4年連続決勝進出の実績

翌年の1986年には、当時世界1位だったイワン・レンドルを決勝にてストレートで撃破、見事にウィンブルドン2連覇を達成します。

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その後、1987年こそ2回戦で敗退したものの、1988年~1991年まで4年連続でウィンブルドン決勝に進出します。しかしその4年間で優勝できたのは1989年のわずか1回、1995年の決勝でもサンプラス相手に敗退することに。

ベッカー ウィンブルドン決勝の記録
  1. 1985年 対カレン〇   6-3,6-7,7-6,6-4
  2. 1986年 対レンドル〇  6-4,6-3,7-5
  3. 1988年 対エドバーグ● 6-4,6-7,4-6,2-6
  4. 1989年 対エドバーグ〇 6-0,7-6,6-4
  5. 1990年 対エドバーグ● 2-6,2-6,6-3,6-3,4-6
  6. 1991年 対シュティヒ● 4-6,6-7,4-6
  7. 1995年 対サンプラス 7-6,2-6,4-6,2-6

ウィンブルドン決勝進出回数7回はとてつもない実績ですが、戦績としては3勝4敗。このような部分から、ベッカーは要所で勝負弱い、ムラが多い、と評価されていたのも事実です。

しかし、1990年前後は、ベッカーは間違いなく男子プロテニス界に欠かせない、主役の一人でした。

エドバーグとのライバル関係/要所での弱さ

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ベッカーは、1歳上のエドバーグとのライバル関係が特に注目されましたが、対戦成績としては25勝10敗と大きく勝ち越しています。

しかし、最も注目を浴びるウィンブルドンでは、3年連続決勝での対戦で1勝2敗、全仏オープン(1989年準決勝)でも負けており、グランドスラムでは1勝3敗の結果でした。

また、1位在位記録もベッカー12週、エドバーグ72週と大きな差があります。

爆発力はものすごいベッカーですが、かなりムラッ気のある性格で、要所での弱さはエドバーグとの戦績でもうかがえます。

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ベッカーのテニスギア

テニスラケット変遷

1984年

プロデビュー間もない1984年は、レンドルと同じ「アディダス GTX-PRO」を使用している様子が確認できます。

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1985年

ウィンブルドン初優勝時に握られていたのが、プーマの「G・ヴィラス ウィナー」というモデル。プーマはベッカーのウィンブルドン優勝後に急遽「ボリスベッカーウィナー」とネーミングを変えて売り出したそうです。なかなか節操のない話ですよね。

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1986年~1990年

ウィンブルドンチャンピオンとなった翌年は、同じプーマから「ボリスベッカースーパー」という紺×赤のカラーリングに変更したモデルを使用開始。ウィナーもスーパーも、グリップエンドにネジがついており、これを緩めてラケットの長さを変えることができるという、かなり革新的な機能がついていました。

プーマラケットは1990年まで使用している様子が確認できますが、1989年にはプーマのステンシルはなくなり、1990年には「プーマ ボリスベッカースーパー」を使いつつエスチューサのステンシルを入れていました。ラケットの契約状況にもムラッ気がみられるベッカーでした。

しかし、このカラーリングのラケットは、本当に格好良かった!

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1991年~1992年

そして1991年からは、プーマの「ボリスベッカースーパー」と全く同じカラーリング、全く同じ形状ながら、正式にメーカーを変更し、ESTUSA=エスチューサ「ボリスベッカープロバンテック」を使い始めます。権利関係はどうなっていたのでしょうか?

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しかし、エスチューサとの契約はわずか1年程度で終了し、その後引退する1999年まで、形状・カラーリングは同じままに、一切ロゴの入らないラケットになり、ストリングにはバボラの2本線ステンシルだけを入れて使い続けました。

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引退後のラケット

2000年頃からベッカーは、フォルクルのテニス部門のオーナーとなり、2007年よりフォルクルのラケット、アパレルを「ボリスベッカーブランド」として展開をしはじめました。

そのブランドのロゴマークは、ベッカーがサービスで深くひざを曲げてテイクバックするシルエットでした。

しかしながら、今ではフォルクルはオリジナルブランドのまま事業展開しています。おそらくベッカーブランドは諸事情で消滅してしまったのでしょう。

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テニスウェア・シューズ変遷

キャリア最初期の1984年はウェアはエレッセ、シューズはアディダスを着用

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1985年~1986年はラケットの契約に合わせてシューズだけプーマに変更し、翌年1987年にはウェアもプーマへ変更しました。

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1988年になるとウェアはFILA=フィラ、シューズはディアドラを履き始めました(ただしこの年は、プーマとディアドラの使用が混在しています)。フィラとディアドラとの契約は1993年初まで続いたようです。

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そして1993年途中から引退する1999年までは、ウェア・シューズはロットとの契約を続けました。

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伝説のソックス「ソロパッズ」を愛用

80~90年代にトップ選手たちがこぞって着用していたソロパッズのテニスソックス。ベッカーもこの伝説のソックスを愛用していたことが知られています。

ベッカーはソロパッズに、ウェア契約のブランドロゴを入れて着用していました。

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現役晩年~引退後はスキャンダル王に

荒れる私生活、引退後の転落

現役時代から脱税を行い(ドイツ在住ながら、タックスヘイブンのモナコに住んでるフリをして脱税)、妻の妊娠中に酔って不倫した結果子供を作ってしまい、その挙句離婚。母国ドイツでの評判はがた落ちになってしまいます。

引退後は手掛けた事業を失敗したり、婚約・破談、再婚・2回目の離婚など、迷走が続きました。

途中、2013年12月から2016年12月までの3年間は、男子テニス界の「レジェンドコーチブーム」の流れの中でジョコビッチのコーチに就任し、ジョコビッチは2回目の黄金期を迎え、生涯グランドスラムを達成したことで、ベッカーもその名声を取り戻したかのように思われました。

しかし、ジョコビッチのコーチ契約が終了した翌年2017年には、長年抱えていた借金の支払いができず、破産宣告を受け、かつての優勝トロフィーや記念品、テニス用品、ジョコビッチから贈られた腕時計までオークションに出品し、支払いに充当するはめに。そこまでで済めば良かったのですが、その後資産隠しが発覚するなど、転落に転落を重ね続けました。

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それ以外にも、かつての愛弟子ジョコビッチが一時バーンアウト状態にあったときは軽口で批判したり、コロナクラスターを発生させてしまったエキシビジョン「アドリア・ツアー」を批判したキリオスとツイッター上で「非論理的」にやりあうなど、いまだお騒がせっぷりには歯止めがかかりません。

さいごに

私がテレビで本格的にテニスを見るようになったのは、1988年のウィンブルドンからです。

華麗なテニスのエドバーグと、豪快に対戦相手をねじ伏せるテニスのベッカーの対比は、確かに観るものを楽しませてくれました。はまった時のベッカーには誰も勝てないが、それを持続するのが難しいのも特徴のひとつで、そのムラっ気も含めてファンには愛されていたように思います。

ウィンブルドンに愛され、そして嫌われもした男”ボリス・ベッカー”

さすがに現在の迷走ぶりについては少々コメントがしずらいですが、更生して、またテニス界をポジティブに盛り上げる存在として活躍してくれることを期待しています。

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